【クロロキン事件】失明(クロロキン網膜症)
(一旦認可が降りると、副作用が報告されても、いとも安易に製品化)
1955 吉富製薬「レゾビン」腎炎・リューマチ等の特効薬として発売
1959 クロロキン網膜症が報告される
1961 小野薬品「キドラ」発売、慢性腎炎の特効薬
1963 353例の報告
1964 厚生省 製薬課長、事実を知り本人 服用中止、しかし公表控える
1969 その5年後、厚生省として網膜症の危険性を添付文書で記載せよと通知
1971 朝日の報道。「クロロキン被害者の会」発足
1974 製造中止。回収はせず。被害者1000名以上
【サリドマイド事件】催奇性(妊婦が飲むと両腕のない子が生まれた) 黙殺していた2年間に数多くの親子が犠牲に…。あまりにも衝撃的だったと言えますが、これでも早めの対処だったのでしょう。
1957 グリュネンタール社(ドイツ)「コンテルガン」を催眠剤として発売
1958 大日本製薬「イソミン」として発売。完全無害と言われ、親が子供に飲ませて映画を観に行ける「シネマジュース」と宣伝
1960 米国食品医薬品局(FDA)で認可拒否
1961 西ドイツで「コンテルガン」に催奇性が警告。グリュネンタール社回収決定
大日本製薬 西ドイツで情報入手後も販売継続
厚生省 亜細亜製薬へサリドマイド剤として認可
1962 大日本製薬「イソミン」自発的に販売停止・回収決定
【スモン事件】強烈な副作用で発売中止になった薬の在庫を海外から売りつけられる。
1939 チバ社(スイス)「キノホルム」を整腸剤として発売。安心な保健薬のイメージで売られる。
⇒激しい下痢・腹痛 下肢などの激しい痺れ・激痛
副作用ではなくウィルス説を主張⇒感染すると言われ失業・自殺へ追い込まれた患者多数
1961 副作用のためアメリカで販売停止⇒大量の在庫処分先として日本で積極的販売
国民健康保険制度始まり、大量・長期使用始まる
1970 新潟大学 椿忠雄教授公表。使用停止。チバガイギー社は今でもウィルス説を主張。
【薬害エイズ事件】役人と企業が結託し、被害を承知の上で長期に販売を続けた事件。犠牲者は多数に及び、3名が実刑判決
失明に至るほどの重症の視力障害をもたらしたクロロキン薬害の場合、その副作用が新聞等で取り上げられる6年前、それまでリウマチ薬としてクロロキンを飲んでいた厚生省薬務局・製薬課課長の豊田勤治氏は、その副作用を知って自身はクロロキンを飲むのをやめたにもかかわらず、そのクロロキンに対し、薬の安全性を監督する立場としての予防措置を取らず、そのため結果的に被害を大きく広げる事になったのですが、その不作為についての職責を氏が公に問われることはなく、むしろ事件後氏は薬務局審議官にまで昇り詰めており、このことからも、国民の健康と安全を危険にさらすような厚生官僚の不作為に対し、厚生省自体にそれを問題とする意識や機能がないに等しかったのだということが分かります。
ですから薬害エイズ事件において、エイズウィルス感染の危険性が分かっていながら、厚生省が迅速に非加熱製剤の回収命令を出さなかったことも、むしろ当時の厚生省の体質上、当然のことだったと言って過言ではないと思います。
クロロキン事件以前にも、サリドマイド事件、スモン事件という、日本中を震撼させ、巨大訴訟となった大薬害事件が発生していますが、いずれの事件においても厚生官僚の不作為による被害の拡大が明らかとなっていながら厚生省は処罰を受けておらず、またこれらマスメディアで騒がれた大薬害事件以外にも、同様の深刻な薬害事件は多数発生していて、そのあげくの薬害エイズ事件だったわけであり、国民を薬害被害の危険に繰り返し晒してきたこの厚生官僚の不作為という《からくり》がいかに強固なものであったかが分かります。
この《からくり》は、厚生省から製薬会社への天下りの常態化によって生み出される利権構造が元凶であったと言われていますが、私は、一省庁における利権のみによってその頑強さが維持されるものではなく、それは、省庁、政府そして裁判所までもが一体となった、政治家や役人達の阿吽の呼吸ようなものによって保たれてきた強固な慣習であり、極めて根の深い問題なのだと思います。
このことを踏まえるならば、薬害エイズ事件において、厚生省生物製剤課長だった松村明仁が業務上過失致死罪で有罪となり、役人が役人として断罪されたことは、この頑強な「失敗の脈絡」を支えてきた《からくり》に何らかの重大な変化が生じたと考えることができます。
鉄壁の利権構造に風穴をあけたその変化が一体何であったのか、実はその答えは、薬害エイズ事件の判決文に明瞭に記されています。
2001年9月28日に東京地裁によって言い渡された判決の核心部分は、『生物製剤課長が一般的・抽象的に負っていた職責、すなわち「生物学的製剤の安全性を確保するとともに、同製剤の使用に伴う公衆に対する危害の発生を未然に防止する」という職責は、その専門性・裁量性等が尊重されるべきであることを考慮しても、本件の事実関係の下においては、本件非加熱製剤の不要不急の投与を控えさせるよう(換言すると、その使用は本件加熱製剤等が入手できない等のやむを得ない場合に限定させるよう)適切な配慮を尽くすべき注意義務として、具体化・顕在化していたとみるべきであって、刑法上もそのような注意義務が被告人に存したということができる。』という箇所であり、本判決が、薬事行政官としての注意義務違反、すなわち信認義務違反に対する有罪判決であったということが分かります。
この判決については、86年4月に感染したと推定されるミドリ十字ルートのみが有罪とされ、85年5月から7月までに感染したと推定される帝京大ルートについては無罪とされたことに対し、では帝京大ルートにおいて1500人が感染したという深刻な事態は不可避とされなければならないのかという疑問や、なぜ生物製剤課長ひとりなのか、薬務局長、厚生大臣、事件に関わった専門医等に責任はなかったのかという疑問等が示されました。
このような疑問は、訴訟を通じて事件の根幹にある利権構造にまでメスが入るべきだと言う思いがあってなされていたと思いますが(判決文自体、その結語において「構造的な問題が根本に存したとも指摘される我が国の血液事業全体について、併せて検討しておくことも望まれるものといえよう」としていて、実際にはそのことがこの問題の核心であることを示唆しています)、そのような批判的観念は、この裁判が判決文にあるところの行政官の不作為、すなわち注意義務違反を裁く裁判だったことがよく理解されていないことからくる筋違いによってもたらされたものであり、この筋違いは、事件を契機として沸き起こった社会的非難や、あるいは検察側の主張そのものにも伏流していたと思います。
事件の根幹に役人や専門医の私利私欲にまみれた利権構造があったことは明らかですから、人々の注意や非難がその問題に集中する事はやむを得ないことだったと思いますが、裁判が行政の仕組みを裁く場ではないことを冷静に受け止め、さらには先に私の述べた信認義務が重大視されつつある世界的趨勢を踏まえた上で、この裁判が信認義務違反を裁く裁判であることを直視した告発がなされていたならば、このような趨勢を受けつつもっと異なった展開になったのではないかと思います。
この場合、告発側は、役人達が自分達の利権を守るために感染の危険を知りながら患者達を犠牲にした疑惑に拘泥するのではなく、患者達が感染からの防御に関してまったく無力だったのに対し、社会的信認を受けた者としての厚生官僚は患者の生殺与奪を思うがままにできるほどの強大な権限をもっていたという、両社の間の圧倒的な非対称性を重点的に取り上げて闘うべきではなかったかと、私は素人ながらに考えています。
いずれにしても、薬害エイズ訴訟全体において、それが注意義務違反を裁く裁判であるという点、そしてそれがこれまで裁かれる事がなかった事柄がはじめて裁かれた裁判であったという、最も刮目すべき点に対して注意が向けられることはほとんどなかったのではないかと思います。
薬害事件にまつわる以上の顛末が示しているのは、「失敗の脈絡」は、構造化された《からくり》によって何度でも変わることなく繰り返されるのであり、それが内部要因によって改善される事はほとんどなく、変化が生じるのは外部からの不可抗力的な圧力を受けた場合だけだということです。
つまり薬害訴訟において、役人の不作為が裁かれるという極めて重大な変化を起こさしめたのは、信認義務違反の適用範囲が拡大されつつあるという、先述した世界の判例の国際的趨勢であり、さらにはそのような趨勢の背景にあると考えられる弱者側のルサンチマンの強大化であっただろうということです。
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